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深夜。人通りも疎らな街に赤い傘が揺れる。折り畳みの傘であるようだ。それはどう見ても女物だった。己には到底似合わぬその赤い傘をさし、稲垣 丈はまだ暗闇の深い街を独り歩く。夜半から降り始めた雨は、アスファルトに残留したままだった熱を下げて気化しむっとするほどの暑さを生んだ。だがそれも熱が下がり暫くすれば冷たい雨へと変容した。
この街の雨は冷たい。
誰もを信じられなくなる、そう、自分さえも信じられなくなるこの街に降る雨は、夏に降るそれですら冷たい。
その雨を避ける傘を丈に渡した女が言った。
「見届けてやるよ…自由を気取るアンタが、この街で何処まで耐えられるかを。
その傘は餞別代わりさ。…じゃね。」
そう言って、目深に被った帽子の影から微かに笑った強い女も、結局は束縛からの解放を求め足掻く者の一人だったのだ。
実際アタシは彼の事をあまり把握してなかった。
「稲垣 丈」
彼について知っている事。
「第一次東京抗争」の暗雲を吹き飛ばし、東京に平穏をもたらした伝説のグループ「SOUL CREW(ソウルクルー)」のNO.2。彼の沈着冷静な態度とフリーソウルな考え方は、多大なるカリスマ性を秘め仲間からも絶大な信望を集めていた。それは同時に、「何故この男ほどの者がNO.2の位置に甘んじているのか。」という不粋な詮索をする者達も出現させたが、当人はその様な周囲の喧騒等全く気にもしていないようだった。
その後、この男をも引き寄せていたSOUL CREWのリーダーが何者かによって殺害される。平穏の象徴でもあったソウルのリーダー殺害により、今まで大きな力によって一つに纏められていた東京の均衡が崩れ、そこここで争いが勃発するようになった。後に、「第二次東京抗争」と呼ばれる事になる時代に突入するのである。
この男はその混乱に乗じてSOUL CREWを抜け、新しいチームを作った。ソウルのNO.2という、若者達の崇拝対象として語られる地位を捨ててまで彼が新しいチームを作った原因として、巷では「権力争いに嫌気が差しての逸脱」、「ただ面倒だっただけなのでは」等の噂が様々な憶測の元に語られているが、無口で知られる当の男は真実を語ろうとはしない。
ソウルのリーダーの死亡に引き続いて起こったNO.2の離反は、周囲に幾重にも及ぶ波紋を広げた。丈に裏切られたと感じる者も多く、それはソウル内の内部分裂にも繋がり、抗争の火花を激しくさせる要因にも繋がった。
何故この時期に、周囲の争乱を更に煽るような行動を起こしたのか。これについてもまた、丈は沈黙を保ったままだったという。
己は、その男についてそういう世間一般レベルでの噂話でか、もしくは工藤優作が ―――元SOUL CREWのNO.3。彼も又男を崇拝している一人であった。――― が己に語る「像」としての彼しか知らなかったといえる。
「あの人は、風みたいに自由で、奔放で。
自分の好きな道を自分で好きなように選んで。
そして誰にも縛られない柔軟で強い魂を持ってるんだ。
丈さんと…そう、リーダーと丈さんさえ居れば、オレはもう怖いものなんかないんだ。」
以前、工藤優作が熱っぽく語った言葉を不意に思い出した。
でもね、優作…ソウルのリーダーはもう死んだよ。そしてこの男も、結果的にアンタを捨てた。優作…今、アンタは怖くないか?アンタの前を常に走っていた風除けが無くなって、恐ろしくはないか?
アタシは怖いよ…この男が、稲垣 丈、という強いこの男が、今怖い。それと同時に、恐怖という感情以上に、この男が今腹立たしい。
自由な男だという。奔放に己の思うがままに生きている男だという。
誰にも左右されない強い魂の持ち主だという。
チリリ、と焼け付くような感情が芽生えた。
それは。
大きく乱れた吐息の下、次の一打の手を窺いながらの攻防戦。バトルの戦況は圧倒的とまではいかないが、既に己が不利だった。体力はもう限界だ。己は負けるだろう、という予感を必死に打ち消しながら男を睨み付ける。視線の先には、汗が伝う首筋を衣服で乱雑に拭う男が居た。アタシの視線に気付いたその男…丈が、皮肉げに唇を歪めて。
「…どうした。もう終わりなのか?」
その言葉と共に挑発するように振られる手。
アタシは、その挑発に煽られるように瞳の力を強めた。そして。
「…アンタ…」
「あぁ?」
ずっと燻っていた疑問を、その時彼にぶつけた。
「…アンタ、一体、何の為に闘ってんだよ。」
「一体何の為に闘っているのか。」
アタシのその問いに対し、躊躇も逡巡もなく
「自分の為に決まってるだろうが。」
そう告げた男。
唖然とした。戸惑いもなくそう言える事が、どれだけ強い事なのか彼はわかっているのだろうか。
己には彼の真似は出来ない。彼のようには在れない。己は己のチームや兄の為に闘っている。チームや兄を守る為に、この闇試合にも臨んだ。そういった「闘う理由」があるから己は強く在れるのだ。闘う事が出来るのだ。人は、他者の支えがなければ己を保つ事すら難しい。
なのに彼は。あっさりと、至極簡単な事であるようにさらりと「己の為」と。
悔しかった。試合にも、彼自身にも負けた気がした。
自由に生きる彼に対する焼け付くような感情。
それは、嫉妬、だった。
「何で…何で、アンタみたいな人が強いんだ。」
力が抜けた手から離れたトンファーが、カランと転がり、無人の地下鉄構内にその音は虚ろに響いた。敗北の意思をそうして示して、悔しげに唇を噛み締める。
「ハッ…これまた随分な言われ様だな。」
嫌味がかったアタシの敗北宣言にも、肩を竦めて丈は言う。
「悔しい…。アタシはアンタみたいには生きれない。…アタシにはムリだ。」
俯いたまま震える肩を暫し見詰め、丈は小さく嘆息した。
「おいお前。港野…洋子、だったな。
…人の強さ、なんてもんはそう簡単に計れるもんじゃねぇよ。『強さ』の種類っつーのも千差万別だ。
…覚えておけ、お前は単なる『快楽主義者』などに負けたわけじゃない。
『稲垣 丈』という一個人に負けただけだ。
…信じてみろよ、自分の力ってやつをよ。」
こう言った後、知らず饒舌になった己に気付き渋面を作りつつ、背を向ける。
「最後に一つ。…本当に自由な奴なんかいねぇよ。…俺もな。」
その最後の言葉にゆるりと顔を上げると、丈は既に歩き始めていた。
「………っ稲垣さん!!」
アタシは初めて名前を呼んで呼び止めた。そして、傍らに置いていたソレを彼に投げ付ける。丈は、いきなり飛んできたソレに一瞬面食らったのか呆然とした顔をした。丈のその顔を見て最後にしてやったり、という感情が芽生えて微かに笑いつつ
「アンタ、今日は歩きだろ。…貸してやるよ、その傘。
…見届けてやるよ…自由を気取るアンタが、この街で何処まで耐えられるかを。その傘は餞別代わりさ。…じゃね。」
少々憮然としつつも礼代わりに傘を受け取った手を上げ去って行く丈を、最後まで見送る。
……何処までも自由に見える彼ですら、柵から逃げる事は叶わないのだろう。彼は最も奔放に見え、だが実際は最も足掻く者、なのかもしれない。
ならばアタシも足掻こう。彼に再び負けたくはないから。耐えぬこう。冷たい雨も、いつかは止むのだから。
「兄さんの為にも、仲間の為にも…そして………自分の為にも。
負けるわけには、いかないんだ。」
NEXT STAGE is NIGHTMARE ISLAND....